/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

相撲の話のような、そうじゃないような

わたしの今場所(11月場所)のはじまりが遅くなりそうだというのは、その日程から明らかだった。初日は砂川だったしさー

(あ、ようやく砂川のいろいろ、アップできました。こちらとかからどうぞー

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大関が3人になったことで非常にテンション高く臨み、その大関の丈夫さを見込んで終盤に生観戦を見込んでいたわたくしの思惑は、初日あたりにおおきく崩れた。

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まず、「うーむ、これは、あんまり、gotoしないで、stayしてたほうが、ええんかいねぇ」と、初日砂川から帰ってきたあたりでローカルニュースに触れて、そう思って、じゃあ決断は2日目の結び(朝乃山-照ノ富士)前にしようと思って、帰宅してもろもろの手配してた分をキャンセルした。その後心静かに(んなわけがない)結びの一番を見て、ひとしきりぺっこり凹んだ。

翌日昼前に突然の「朝乃山休場」報にびっくりしたさー。

(ここまで、前回までのあらすじ)

そこからいろんなシャワーを浴びすぎた感がある。

そもそもそのひとの休場に関して、どうしても避けて通れない話になってるのは「合同稽古に参加しなかった」についてのことである。そこからの調整や稽古の量と質、からだのつくりかたと相撲のとり方、気迫、メンタル、体力、取り口、その他……。そして、同じ相手に3回続けて負けた、ということについても。

他のなにかを見ていてもそうだが、ことのほか、相撲を観るときには「相撲を観るうえで、の、やくそくごと」とか「それをおさえておきたいということ」が多いような気がしてる。生まれてこの方何度も何度も私的相撲熱のピークを迎えて、それは把握しているはずだったのに、なぜ今回ばかりは必要以上に動揺しているのだろうか。

しかも新大関正代も取組の中で足を負傷して追うように休場ということになり、そもそも初日から不在の横綱に加えて大関も2人休むということになったというね。

「非常事態」だとひとはいう。だが、チケットを取った自分のみならず、大関になってこの時期にふたりとも「初休場」というのは確かに「不測の事態」ではあるが、にんげんがすもうをとっている以上どうにもならないめぐり合わせではあるのだと。

心は暴れながらも、仕事が終わったらダッシュで帰宅してテレビの前に座り、相撲を見てはきゃっきゃしている日々は続いている。どこか心の底に大きな穴を認めながらも、土俵はたのしく見ている。だが、ループは深くなるばかりである。

ただ観るものが、視線の先になにを求めるのか、ということについては、あと1週間、まだまだぐるぐるするのだろうと思っている。「その地位はその興行の看板であるから」ということばを耳にするにつけ、そのひとにはその地位に至るまでに通り過ぎてこなければならなかったけれどもすーっと通り過ぎてきた関門があったのかもしれないと思ったり、そうは思いつつも期待の高さばかりを述べていたり、そこから急に手のひらを返しているような感覚があったり。ひょっとすると、難しいことは忘れたまま、あるいは奥底にファウルしたまま、年を越したほうがいいのかもしれないけれど。ただ快癒とその先の場所に、ここまでちょっとなにか溜まっていたような、霧のようなものをしゅばっと振り払って立っていてほしいということだけを願って立っていればいいのかな、という感覚は、ある。

あ、土俵はとてもたのしい。見ていてとてもたのしい。それだけでいい。今場所は。それだけで、千秋楽まで、無事に続けばそれで。あ、無事にということばに矛盾があっても、それはそれで。

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初日の前の日、家を出る前に描いた。最近30分くらいで赤青えんぴつだけで描いている。