/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

『いつもとは違うなかでいつもを求める』なのかを。そして何を愛し、何を求めるのかを。

10月になった。

ここ数年、年に100エントリくらいは書きたいなと思っているのだが、どうもことしはそこに届きそうにない。考え込んだり、別の手を動かしたりして*1、文章に至らないことが、ことしは多すぎたし、これからも増えるのかもしれない。

そうはいっても、なんとかVリーグが開幕する月を迎えた。各学連による大学バレーは、今までとは違った形でではあるが、ことしの締めくくりに向け、歩を進め始めた。普段は会場に赴いてあれやこれやという時間を持っているが、今季はなかなかそういう時間を持てずにいる。だが、開幕すれば、徐々に状況は変わってくるのかもしれない。

今は、じわじわと、開幕に向けて、心と体とアシの準備をしている。とはいえ、まだまだ、先月のテレビの前で相撲を見た緊迫とか熱狂を体が覚えていて、そちらの思考にジタバタすることはある。

大相撲は先月27日に秋場所が終わって、大関正代が誕生して、当局やいろいろなメディア、その他もろもろが場所の振り返りをし始めている(当人たちには貴重なオフ期間である)。先週、その中で読んだ文章が、えらく心に響いた。響いた内容というのが、相撲を見るものとしてというよりは、どちらかというと、ことしを過ごすものとして、だったので、そのまま此処に記す。

inspired:

www.jiji.com

「でもね、相撲って、コロナ禍の初頭である3月から、ずっと、いろいろな形を変えながら、どうにかこうにか場所を続けていて*2、その中で出てくる不安や不満や歪みは、続けているからこそ発生するものではないか。と思ったら、勝った負けたって、どこなんだろうな」

最初から最後まで(投げる大関と投げられる大関=同一人物=などを反芻しながら)この文章を読んで、文章を読んだらまず溢れてきた感想がそこだった。負けるかもしれないと思えること自体が……(この文章の締めをどうしようか決まらなかった)。

東京の外に住む者が東京に行くのもままならない状況が続く中(実は2月にカピオに行って以来、一度も県境をまたいでいない)、一時的に千秋楽のチケットを握りしめて*3現地入りを模索できるくらいに、国技館の入りは(制限している以上に)良くなかったという。幸い、一時的におさえたチケットは、公式リセールのおかげで、どこかの誰かが手に入れて、幸せに浸れたようなのだが。懸賞金もあまり多くなかったし、三賞受賞者も絞られた。休場者が多かったし、土俵の内容もよくなかったのかもしれない。

だけどやっぱり、一旦相撲から目線を離して、ある角度から見たら「開催されているし、様子もわかるし、その気になれば現地で見ることもできる」のは、そうじゃない界隈に較べたら、実に羨ましい世界なのである。

play(この場合、競技、演技、演奏、その他いろいろ広義に渡るものを指している)の周りに様々な立場のひとがいる中で、見るという立場の者には、どうしても、当事者がいくら「そんなことはない」と言ったとしても、どうしても、居るべき場所を見出だせない。いくら飾られても、頭を下げられても。playするひとがいちばんそこで止まらないであってほしいから、見守るものは、どうしても。

ずっと続いている「中止」や「縮小」や「非公開」の報せに、「仕方ないです」という言葉とともに、佇んだ。何度となく。

そこを考え直して道筋をつけるのが「新しい様式」なのだろうが、見る立場の者が、その場所をどこかに確保するのか、については、おそらく、Vリーグが無事に開幕したあとも、課題として残り続けるのだろうなとは思っている。今はかろうじて見るものの立つ場所が見つけられそうだとしても、状況は変わるかもしれない。

見られるということ、そこに思いを乗せるということ、これからどうなっていくのであろうか。じっと考え込むのである。

*1:只今inktober開催中

*2:緊急事態宣言下の5月はどうにもならなくて中止になったが

*3:実際に発券できるのは前日なのだが