/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

「オポジットのかなしみ」など

ばれにゅ☆どっとねっと: 月刊バレーボール2007年11月号に見る、松平康隆氏の分かってなさ加減に呆れるを拝見して、元記事をさらっと流し読みして(高校指導者座談会読みたさに一冊手許に置いてもよさそうなものだが、本日はさしあたって回避。月バレってページ単位で買えればよいのにと思うことはある)、ひとつ思ったことは、「良くも悪くも松平氏って9人制のバック名手、なのかなぁ」ということであった。

ひとりひとりの選手に固有の持ち場と役割を、という方向性は、実は、ひとりひとりの選手の可能性をスポイルしてしまっているかも。
リベロが出来たのは、小さい選手に希望と光を持ってきたのかもしれないが(まぁこの件についても一言以上ある。飲んだらその件だけでジョッキが空きそうだが、それは置いておく)。

全日本の植田監督がそのハシリの頃に「オポジットを置かず」と言ったとき、その言葉の意味がわかりかねた当方であったが、今になってじわじわと染みてきている。置くな、ではないが、少なくとも国内のチームでは、よっぽどの選手でなければ、日本人のオポジットというのは何らかのかなしみを背負ってしまうことになっちゃうのかなぁ、と、そう思う。Vプレミアなど、外国人を喚べるチームにとっては、オポジットこそが一番外国人での強化を考えられやすいポイントになるのだし。
実は、当方が常々そんなことを考えながら見ていたのが合成セピア*1なのだが、よりにもよってその豊田豪勢(そろそろ漢字代わりかけ?久光化?)に入るのですか松永理生。と。それは、いくつものためいきを伴う。

そういえば「オポジットのかなしみ」といえばもう一例は軽くアタマに浮かぶ。見たい見たい上で見たいと思っていて、その願い通りに上で見られたアタッカーなのだが、オポジットではなくなったがために、もうひとつやらねばならぬコトの負荷が大きかったからか、その持ち味がかなり削られた。それは何かと切ないことであった。

背負うものは重いのだが、それでも、前を向いて、かなしみふかくとも、それを打ち抜き、破り、何かを持ってこなければならない、のが、オポジット

*1:サマーリーグなどで見られた豊田合成若手中心チームの極私的通称