/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

いろんなことが繋がっている(長すぎる序章)

生まれた街に住んでいると、妙に昔のことを思い出したりする。
自分の「めんどくさいひとっぷり」を主に形作ったのが、中学3年間だったのだろうと今でも思う。学校という空間がやけに狭かった。自分の得意とするところよりも、どうしようもなく苦手なところがクローズアップされた。そう定義されて妥当なのかどうかはわからないが、当人にはいじめられてたと認識していたところがあったと思う*1。学区内の公立よりも近いからその他の理由で受験して入った(私立ではない)。小学校から同じ中学に進めたかもしれないひとの顔を思い浮かべつつ、どうしてそうしたんだろうと何度も思いつつ、そのときは長い3年を過ごしてたのだと思う。学校には行ったしクラブにも参画していたし…なんとか「耐えた」のかなぁと思うが、今になっても若干そのときのことを引きずっているのかな、と考えるところはある。自分とだれかの距離感とか、出ていき方とか、その他、もろもろの局面で(とはいえ、そりゃずっと自分の中に飼うものとして受け容れつつひきずらなきゃならぬ)。
おそらく、その頃自分の周りにあるものが学校まわりの空間だけだったら、パンクしてたのだろう。自分を支えていたもののひとつが、学校の外に持っていた趣味と、そこで関わる方々との関係性であった*2と記憶している。カープが好きで、当時のファン雑誌に「地元で一緒に観戦*3したり話をしたりできる方」と掲載して貰って、複数の方と交流する機会ができた。学校のそばにも多々いらしたが、その方々とはまた別の意味で「大学生」の知り合いができた。世界を広げて貰った感があった。あるひとりは音楽を愉しむひとで、しばしば長い書簡のやりとりをした。あるひとりは実はバレーボールに詳しいひとで、たとえばサントリーの草創期に関する話などはその方から聞いたものだった。わたしの家族も知るところとなった「(北海)学園のおにいさんたち」だった。おにいさんたちの通っていた大学の名前は知っていて、住んでいたところの近くでもその名前をしばしば見ていて、でも、実際に行ったことはなかったけれど。札幌にいた折、ことに中学生の頃には、ほんとうにお世話になった、のだった。
高校を出て大学に行ってからのことは何度かここで書いた。自分が学生の時に大学バレーを見ていて、卒業してもしばらく見ていて、そのうちシゴトがシフト制になって1日じゅう会社にいるような状況になった*4のと、サッカーを見始めたのと、その他もろもろの理由をでっちあげつつすこし離れた。学園からVリーグに進んだ選手がいるというのを風の便りに聞いた(そもそもVリーグという名称になったというのも風の便りに聞いた)。学園って強いチームなのかとか頭をよぎったが、関東はジャンキーに見ていたものの、北海道のリーグのことは何一つ知らなかった。
何年か経って再びバレーボールを見るようになってからのことは、このブログにいろいろ書いている。主に大学と、つくばユナイテッドSun GAIAが参画するようになったV・チャレンジリーグを見てきた。V・チャレンジリーグを見る過程で、以前風の便りに聞いたその選手を見る機会があった。よく似た名前(と背恰好)のサッカー選手がいるとそのときになって知って、ああ自分のサッカーみる度合いってそんなものだったのかと頭を抱えたりもした(サッカー観戦もよくよく考えたら国内仕様だったなぁ。Jリーグ見始めて、いや、その前に大学リーグ見に西が丘行ってたり)。
大学バレーを長らく見ていたら、母校以上に思い入れがつよい学校というのがいくつかできてきた。試合や練習場所としてのキャンパスに足を運ぶことが多いからかもしれないし、その場を介してキニナル選手の生活空間として意識するところがあるのかもしれないし。主に関東で大学バレーを見ていて、やっぱり、遠ざかるのは寂しかったし、遠ざかってどうなるのか、不安だった。
自分が関東を離れて、生まれた街で、どう暮らしていくのだろうというのはわからなかった。越してすぐの頃に、初めてリーグ戦を見に行った。その昔複数のおにいさんにお世話になった大学、家族が卒業した大学、一時期札幌で仕事をしていた頃の同僚の出身大学…やけに近くて、でも直接の縁はない大学がずらっと並んでいて、なんだか不思議な気がした。バレーがどうのという以前にそちらのほうが印象に残ったのだが。
昨秋の時点ではそこまでだったが、今春観戦自体にマチクタビレて行くようになった春季リーグで、ぐぐっと心が動いた。あくまでももののたとえとして書くが、ふんぞり返って遠目に俯瞰していた感覚から、急に我がこととして前のめりになって見るようになった。おそらく3度目くらいで書くが、きっかけは5月3日の大谷地だった。
それから10日ほどで当地のリーグ戦は終わってしまったのだが、以後「母校以上に思い入れがつよい」大学が、現在自分が生活をしている空間に確実にできつつある。怪しい中学生の自分を支えたおにいさんが通っていた大学、風の便りで聞いたあの選手が当地に戻ってきていて、現役選手としてのポジションをもちつつ、大学では監督として采配をふるっている、その大学のことであるとだけ、本稿では書いて〆る。

*1:最近の報道にあるような、「そこまで」はされとらんが

*2:その節は至らぬことばかりでご迷惑をおかけしました、である。まったくもう。今思い出しても冷や汗を多々かく

*3:当時その機会は円山球場で1回あるかないか、だった。ええ時代になったものである

*4:と冷静に書いてみたけどちょっとおかしい