/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

先生…15年経ちましたが、何も変わっていません

1990年9月4日。

とりあえず就職活動も一段落したので、少々長めのスパンで実家に帰っていた。
前の年はかなりの勢いで全日本男子バレーの試合も見に行ったが、このころはそれほどでもなかった。テレビのスポーツニュースだか新聞のベタ記事だかで、ソ連(当時)と転戦中の全日本がフルセットだかで粘った末に勝ったことは知っていた。


ある友人から電話がかかってきた。
「日本勝ったねぇ」
「うん…というか、…知ってる?」
「…ぇ」

バレーボール*1にとって大切な人物であり、当時学生生活を送っていた当方にとっても大切な先生が、40台の若さ*2で世を去った、という報せであった。

そのとき当方は耳を疑った。
そりゃ就職活動だったり、取っている講義の数が減っていたりでキャンパスに行く頻度は下がってはいたが、そんな話聞いてないっす…と。
あとから聞くと、新学期が始まるだか始まらないだかの時期に癌がわかり、かねてから鍛えぬかれた働き盛りの先生のからだのなかで、それがかなり急速に進行してしまっていた、ということだったらしい。
最終的に当方の卒論を見てくださったゼミの師は、先生とは所謂「盟友」であったのだが、学期があけてから話を向けると「明らかに、これは日本のバレー界にとって重大な損失である」ということで話が一致したことを思い出したのである。
先生の死の前年頃まで、1冊まともなバレーボール雑誌があったのだが、何故か、この先生の名を「次期全日本男子の監督にするべきだ」と書いた投書が掲載されるかされないか、すぐにこの雑誌の発刊はとまってしまった。

当方は学生時代(今も、かも)、母校の運動部に対しては、やや距離をおいて見ていた節があるのだが、部の動きがどうのこうのというところとは別の観点で、先生がバレーボールやスポーツに対して注いできたもの、及ぼした影響の大きさ、そういうものに非常に心惹かれるものが大きかった。学科の壁を越えて、先生から吸収できるものは吸収したいと願った。何度となく先生の研究室に伺っては議論を仕掛けにいった。あのときはお騒がせしました、とはもう言えないのだが…

バレーボールに対しての影響力ははかりしれなかった先生であったが、どういうわけか日本の中ではその貢献が正当に評価されていなかった感はあった。やはり、ミュンヘンの金メダリスト優遇、という流れが、そのころから既に大きく出来すぎていたのだろうと思う。

古市英先生が亡くなってから早くも15年になる。
この間に、日本のスポーツ界を俯瞰すると大きな変化が各所で起こっている。

サッカーではJリーグが始まって、時間をかけて、その「考え方」を含めて大衆に浸透していった。
野球では野茂英雄をトリガーに、多くの選手がメジャーに飛び出して行った。国内でも新しい球団が出来たり、ファンも含めて組織のあり方について大いに考えた。変わらないものにもどかしい思いは、そりゃあるが。
水泳や体操や陸上や、女子のゴルフなどでも、ひとりひとりの選手がそれぞれの形で力を蓄え、それを余すところなく披瀝する、そういう勢いを感じるところは大きい。
プレイヤーも、そしてそれを応援するファンも、何かが変わりつつ、ここまで時を刻んでいる。

それと同じ空気を吸っているはずのバレーに関してはなんとももどかしい。
ハードに試合を観まくっていたころと何か変わっただろうか…
変わったのはジャニーズへの依存度の高さと、それに依存するがゆえに、競技の魅力を伝えることを放棄したメディア…だろうか…。
つくばからの帰りに、今だったら先生だったらどんなことをおっしゃるのかなぁと考えたのであった。

#今日書くことに決めていて、なんとか書いたのだが、まだまだ加筆はするやもしれぬ。

*1:あえて「日本の」という冠はつけない

*2:WEBに公開されているバレー部の70年誌に、「天寿を全うした」と書いたのは誰だ…と突っ込みましたがな