/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

1998年10月

FC東京さんは天秤座らしい。きょうが誕生日なのだそうだ。
最近東京さんのエンブレム(サッカーの、で、バレーは別にあるはずなのだが、Vリーグのサイトにもこれが出ておる)を見るにつけ、「無理だから、1999年なんて、無理だから…」と呟いてしまうことがある。
無理もない。
サッカーを見ていた*1当方が、立て続けにいろいろなものを喪ったのが1998年後半だったのである。
だいじな戦友であり、一時期それ以上でもあり、しかしその後袂を別った仲間がいた。隣のチームのサポーターだった。お互いの連絡を取らなくなった後、やつが関西に新しい仕事場を求め、その後、フランスに行って初めて見るワールドカップに舌鼓を打った、というのは、誰かから風の便りで聞いた。そして、次の報せは、突然その頃の仲間から電話で届いた。ちょうど札幌記念の頃だったことは憶えている。
「あいつ、バイク乗るんだけど」「そうなんだ…」「雨の日に、京都のトンネルで…」
…わしよりも年下だったから、まだ20代…だった。それは若いだろう。それを報せてきたひとに、葬儀に行く際に寄せ書きを渡すのでわしにも何か、と言われたが、どのツラ下げて感が否めず、丁重に辞退させていただいた*2。「仲間」にはそれが赦せなかったんだろうとは思う。わだかまりは存在する。これは今になっても。

そして、10月に入ってから1月近く経ってもたらされた報せは、大事な大事な「うちのチーム」自体の存在に関わるものであった。
正直、「うちのチーム」のために、そのとき自分に出来ると言えることは、ほとんど無かった。いろいろあって、スタジアムへも行けていないし、ゴール裏からも縁遠くなっていたし、だいいちどんな顔してあのときの仲間に会えばよいのよという感じではあった。ましてや、シゴトは不規則で、21時がまだ宵の口という状況も少なからずあった。確かリーグの最終戦が、当時当方が住んでいた場所で行なわれて、さすがに足を運びたいと思ったのだが、それもかなわなかった。

あの年が明ける前からの一連の…については、心の奥に秘めるものが多々あったんだなぁと、最近ニコニコ動画(→組曲『ニコニコJリーグ』 by JVS スポーツ/動画 - ニコニコ動画)で見ながら思い出したりしたのだけれど、結局、わしの戦友だった奴は、「うちのチーム」がなくなっちゃったことを知らんのだ、ということは、折に触れて思うところではある。

あのときのサポーター仲間は、1999年1月1日を以て一区切りをつけたひと、よく似た名前の、あるいは別の、クラブを応援し始めたひと、その他、いろいろ、になったんだろうなぁ…と、先日国立で対岸のゴール裏を眺めながらしみじみ。そして向こうには山口素弘やら三浦アツやらがいたのだが、なぜ当方がそっち側じゃないところでおーんなよりもーとか言っていたのかも、説明つかないけど自分の中では決着がついているのかなぁとかも。

今、東京さんのエンブレムの「1999」という数字を見ると、「ああそれは、わしの中で、区切りのつかなかった期間と同じなんだなぁ」と思う。
来年からようやく「1年目」を始めることができるのかなぁ。その前に、今だけど。今年の残りだけど。

久々に「サポーターって…」ということを考えるに至ったこちらの記事および、その記事を呼んだ増田の元記事に多謝。

葛藤や苦境をいかに理解して、どんな見方ができるか
という事はサポーターにとって非常に大事なポイントなのです。

というところに蛍光マーカーを引くよ。

*1:あまりスタジアムへは行かなくなっていたが

*2:別途手紙は送ったんだったと記憶