/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

「好き」も「楽しい」もいろいろでいい

あえてばれーぼーるたぐははずしたが。

ひとつのことを好きでいること、楽しむことについては、その人の数だけ楽しみ方があり、楽しんでいるうえでの喜びや怒りのツボも、楽しんでいるひとの数だけあるんだ、ということは忘れずにいたい。
上とか下とかいいとか悪いとか、そういうところに嵌めようとしていいのかどうか、というのは、そういいたくなって口に出す前に、ちょっと立ち止まって考えたほうがいいんじゃないだろうかな、と思う。
何かを主張したくなったときでも「自分はこうやって楽しんでいる」「自分はこう思う」どまりにしておくのがいいんじゃないのかなぁ。

と、実は、ここまで、1週間くらい前に書いていた。
今も自分が思うところはあまり変わっていないのだが、ついったーなどでのやりとりを見ていると、立場上、「良いと悪い」「正しいと誤った」というのをちゃんと見極めながら、「良い」「正しい」方向に導く、あるいは、導かれることが必要なひとがいて、その視点は尊重される必要があるんだろうな…ということにも気がつき始めた。その人とは、今バレーボールをやっていて、その技術を高めていきたいというプレイヤーと、それを導く指導者である。
最近、ついったーで目の肥えたばぼったーのつぶやきを参照して、しみじみ、バレーボールって難しいなぁと思う。試合を目で見て「お、すごい!」と思ったプレイが、必ずしも無条件で賞賛されるべきものではない*1ことに直面していることについて、特にそう思う。
見て聞いて感じた何らかの疑問や違和感について、積極的に解決していかなければならない立場の人、解決するのが楽しい人、あまり考えずにまずは感じたい人、それぞれなのである。「ほんとうは間違っているけど(良くないことなのだけど)そう言われるのもわからんではないなぁ、でも自分はこれはすげぇと思うし、見るのが好きだなぁ」という境地に達するには…けっこう微妙な手数を要するんだろうなぁと思うわけではある*2
導きも、叫びも、つぶやきも、ほどよく吸収したうえで、自分の立ち位置は自分の立ち位置で。そう在ることが出来ればいいなぁ…とは思うのだが、どれが正解かみたいな話になっちゃうと、微妙だなぁ。
なんでバレーでばかりこんな心境になるのかなぁとは思う。これは…見ている頻度とはまた違う係数があるんだろうなぁ。フィギュアとか体操とか得点系の競技を(わからんなりに)見ているときに、けっこう近しい心境になったことがあったかもしれないなぁ、と、今日思った。

おそらく、この雑文は、続:手法なのか、競技の特性なのか、それとも… - /ja あやつる YmrDhalmelあたりの続き。

*1:語尾に「らしい」がつくくらい、自覚に欠けることも含めて

*2:…このあたり、今秋けっこう悟りを開いたのもしれんなぁw