/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

アタマに残るのは数字ではなく、数値での比較にも意味はなく

男子バレーのマンガ|楽しく考える男子バレーのエントリとコメントにインスパイアされただけで、内容は全然別のことを書く。

まだ単行本は見ていないのだが、西山優里子といえば、ここ数年ほど春高バレー特集冊子の表紙を手がけているひとだというイメージがある。なんか少年少女をかっちょよく描く方だなぁ。実は今年初めて見たのだが。
この表紙、各年の月バレ4月号についている別冊ででかく展開されているが、日本文化出版のWebサイトでもその一面を垣間見ることが出来る。

2006年、やこ-まいこーは前年の実写版*1に続く2年連続出場。この年はなんとなく「絵画」っぽいのだが、次の2007年からけっこう色が出てきているような気がする。右下2名*2が今同じチームだというのがなんとも趣深い。左上のおっとこまえな女子選手は峯村か宮田だよ。キャプテンだし。ことしのはみんなかっこいい。

そして、上記の元記事についていたコメントが妙にアタマに残った。おそらく元記事の書き手はいっぱい引き出しを持っておられて、そのアタマの中でもいろんなことが回っているのだろうから、どんなコメントやエントリーで応えられるのかこっそり楽しみにしつつ、以下徒然に私見を転がしてみる。

バレーボールを見る(いや、バレーボールに限らない)それぞれのココロの中に、それぞれの「アイドル(この場合、偶像、というような原義的な意味で)」が在る。それは、そう簡単に崩れないというのも実感できるところであるし、「今」を見るときに必ずしもプラスになることばかりとは限らない、という要素はあるのだとは思う。

セッター古川といえば、個人的には、「古川は天才なのだが」の「が」以降がついて以降の記憶だけがある。その前はちょこちょこ集めた雑誌バックナンバーの中だけの記録だった。
その頃も、今も、おおくのひとが魅せられている選手であるとは思う。しかしちょうど当方がバレーを見始めた頃には、所属チームで苦闘したり、全日本を外れたり、そのなかからなにかが変わりつつあるのかないのか…そういう時期であったと記憶している。

1980年代と今とでは、バレーボール全体のスタイルも、世界の中での日本の位置取りも、各選手に求められるものも、おおきく変わってしまっているのだと思う。「○○>△△>□□」みたいな不等号で書くような比較の方法は(同世代同時期に動く人たちにおいても意味はないのだろうにましてや)世代が違う上に、数字で較べがたいセッターにおいては、ナンセンスだろう。

しかし、それはあくまでも図示しようとするからであり、それぞれ、観る者のアタマの中では、微妙なバランスで複数のひとたちがうごめきあっている。
今見ている何処かや誰かに、前にココロを動かされた何処かや誰かを無意識に重ねることも、別に特別なことではないだろう。なにかを捜したり、なにかを考えるときに思い出したりすることも、それは自然であっていいだろう。それは「前」の価値を下げることではないし、「今」を貶めることでもない。

今月の月バレで大学生選手のフォーム連続写真をばっさばっさと解説していたそのひとこそ、当方をバレーボールに夢中にさせ、今もアタマの中に棲んでいるひとである。監督としてどーよとかはこの際レフト線にファウルしておく。今見ている大学生を…と考えると、妙に感慨深いものがあった。

*1:月バレ別冊自体にはイラストがあった。おおっ高橋悠。そして牟田?

*2:左は横村で右が千々木