/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

考えてたんじゃなくて、考えているように見せて、想ったことを包んだだけだった。

ここ数日、どうにも、どこにも持って行きようのない何かを抱えていた。
Blogにもいっぱい下書きをこさえたのだが、公開に至るまで書き上げられたものは何一つ無かった。
そしてtwitterでかなり暴れた。ひとしきり暴れたあとで、いろいろと見えてきた。

twitterについて、当方は思い違いをしていたことに、今更気がついた。
個人がその立場で遣うtwitterというのは、自分が自分の書きたいと欲することを書く場所であると認識していた。読みたいと思うひとはそれをフォローし、別にどうでもよければ流すがままである。そう思っていた。
よく「厭ならリムーブすればいいじゃない」と言われるが、実は、そう簡単にできることではない。読み手としての自分が、フォローしているひとが書いたものをひとつひとつより分けられないのと同じようなことが、フォロアーにとっても起こっている、そのことに、思いを致すことが出来ていなかった。

当方、これまで、此処にもtwitterにも、いろんなことを書いてきた。書くだけではなく、何らかの形で、読み手に伝われば良いと思って書いてきた。伝えるために、言葉を選んで、稚拙なりにひとつひとつ書いてきた。書くにあたって、考えるところは考えた。…いや、考えた、つもりだった。

しかし、3年前ならともかく、今の自分の立ち位置や、今の自分の想いのよりどころからは、何も伝わらないし、書くべきことが何も書き切れていない、ということに、段々気がついてきてしまった。何らかの枕詞のついた、何らかの属性の中に包まれた瞬間、言葉はただの言葉として、空回りするようになってしまった。主張していると見せかけていることは、その主張に見える言葉の周りの何かをはがすと、とたんに裸になって、正体が見えてきてしまう。そのことに、自分で気がついてしまうことほど、空しいことはない。
正確には、自分で気がついたというよりは、自分でうすうす考えていたところに、決定的な外からの働きかけがあって、それを読むことによって、より深く、強く気づかされた、ということなのだが。

気がついてしまった以上、想うところが順調にはたらくように、それをただただ自分の力と心の及ぶ範囲で、想っていく、自分ができること、して良いことって、それくらいしかないのかもしれない。