/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

見いだそうとする意味と、見えてくるかたち

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2年前の5月。

遠く、ゆふいんに、忘れ得ぬ一泊をした。ほんとうはもうちょっとそのままその場所に居たかったくらい…だったのだが、何故その場所に居たかを考えてみれば、それがかなわなかったのも自明、ではある。大分三好ヴァイセアドラーのファン感謝祭に行った、その前日の宿がゆふいんだったからである。後ろ髪を引かれつつ、その後に待ち構えることにドキドキしつつ、ゆふいんから大分へ戻った。そのときに乗った列車を、発車する前に側面から撮った。数時間後、「キャプテンマークみたいっすよね」と、出逢った方にこのしゃしんを見せびらびらかしながら歩いていたので、恐らくそれを憶えてしまっている方はどこかにいらっしゃるかもしれない。そんな風に見えた横棒のところに、偶然にもとまっているいっぴきの姿も愛おしい。

学生バレーなどでは、「1」の下に滞在することの方が多いのがこの横棒だが、実は「2」の下のほうが据わりがいい。なんというか、どっしりと構えているのである。ちゃんと支えがあるような数字の並びである。

色には若干の齟齬があるが、確かにこの列車で見たその数字は、キャプテンマークのついたそれのようだった。この数字に宿る想いをそっと仕舞いながら、キャプテンマークと共に在ったこの数字を、さるシーズンずっと見ていた。キャプテンマークがついたまま、そのひとはおどけてその場を盛り立て、そして、暫く経ったところで、唐突にその時間が終わることがわかった。

この前不意にそのひとの誕生日を思い起こした。久しぶりのトップリーグで、その名前が見える場所で、チームのひととしての新しいスタートを切っていた。そして、不意にこの列車のしゃしんのことを思い出して、「あっ」と声をあげてしまった。

やっぱり色には若干の齟齬はある、が。

そして、今は、この数字を見ても想いをしまい込む必要がなくなったことにも、併せて気がついた。

あたらしいキャプテンの、あたらしいシーズンに寄せたことば、というのは、キャプテンがうまれるたびにいろいろなところでうまれている。時が流れていろいろなことが起こった、そのことも噛みしめる。それぞれの場所で、それぞれの舞台で、それぞれの戦いが始まろうとしているということを、あらためてその数字の造形に見ているのである。

2018-19シーズン 新キャプテン,副キャプテン就任コメント | つくばユナイテッドSunGAIA

 今そこにどんな今があるのかということを、しみじみと。

 

傘はなくはない

風邪引いてました。いやまだ過去形にするには早いです。次の週末に「回復しました」って言えるかどうかよくわからないっす。

ということで、ここのところのざわめき案件はオールスルーとします。えのぐすくいだけは行こうと思っています。

世界選手権は追えてたわけではないのだけれど、というか、追わずに遠巻きに眺めていた(ほぼ業務上の都合)のだが、それを巡るもろもろを見ているだけで胃にもたれるのは何故だろうか。

そしてそれ以上に、贔屓たるチームで突然降りかかった(いや、当事者の中では周到に、だったのだろうけれども)主将交代劇はいったいなにがどうあったゆえなのだろうかと。

いろいろ追おうとすれど、追えど、その時に零れる雫を受け止める傘などないわけで。こちらが出来ることは、ただ、キャプテンマークに偽装出来そうな海苔や昆布を探すことくらいで。

 

手がものを云う

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手が織りなす表情について、思いを巡らせることはある。
そして、見る者の眼がその手に釘付けにされることも、ままある。

手が繋いでいく(たまに足だったりするし、アタマだったりもするし、手に仕事をさせるのはカラダの他の部位である、ということも、あるけれども)のがバレーボールであるということを、ことのほか感じた時間があったなあと、三周くらい回ってから振り返る。

よく「顔ばっかり見てるんじゃネーノ」といわれることは…なきにしもあらずだが、最近は、どうも手ばかり追ってしまうことはあるのかなと。

手の表情を、そのうち綺麗に描ければいいなあと、絵を描く人としておもっていたりもするが、それはまた追って(練習はしております)。

あのとき言えなかったことに

ごくごく普通の日曜日を過ごしてみた。元々この週末にと予定していた髪を切って、街中で少々買い物をして、帰ってきた。

それぞれのひとびとに、それぞれに生まれ育ったり暮らしたりしている場所があって、そのときそのときこまったことがあっても、そこがその場所であるのだということに、あらためて感じ入っている。

いつもよりもほんのちょっとはやく布団に入って、起きるちょっと前に不意に思い出すのが、2年前の大分へ行ったときのことだった。熊本・大分でおおきな地震が続いた折から1ヶ月強経ったところのことであった。主たる目的の前日に、まだその爪痕の残るゆふいんに泊まって、そこからいろいろな方と言葉を交わして。そのときに感じ入ったことはいっぱいあったんだ、あったんだけど、恐らく、そのときに言葉を向けた側がほんとうに伝えたかったことを、そのときの自分はちゃんと受け止められなくて、ただ自分が伝えたいことを伝えようとしていたんじゃなかろうかと。

いっぱい考えた。

ただ、いつでも、いまでも、自分は自分でしかなくて、自分が感じられる、受け止められることのほかのことについては、どうにも感触が薄くて、今はわかってるなどとは到底言えないし、たぶんなにもわかっていないままなのだろうなと。

深い思慮もないままに、時間は動く。

20160521|Yufuin

日常であれ、非日常であれ。

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たった今、ほぼ全道への送電が再開されたとのことで。ほんとうに、各所、各局面で、たゆまずにはたらきを続ける方々に感謝。反面、今、ここに存在していてオノレに出来ることの少なさに、なんともいえない懐かしいまいなすぱわーを感じるこの頃である。

金曜日にはなるべく出勤出来るように準備をしておいてほしい、と、木曜の夜(その時点では、まだまだUchiも停電中)に上司からメールで連絡があり、金曜日はそのつもりで起きて準備した。ただ、朝の時点で職場に行ける公共交通機関がすべて止まっていたので、その復旧を待ってという話になった。

昼前、市電が動き始めるらしいということを識り、歩いて電停に向かい、そこから市電で市街地の方面へ。職場へは地下鉄に乗っていくのだが、地下鉄に繋がる出口は概ねシャッターが閉まっていた。地下鉄の開通まではまだ時間がかかるということか、と思いつつ、市街地に来たならひとつだけすませておきたい用事があったのを思い出しつつ、降りられる階段を探しながら近辺を歩いてみた。

街中の店という店は8割方閉店していた。前の日から貼られていた張り紙だろうか、休業を伝える張り紙はほとんど手書きだった。よくよく回っていたら、大通から札幌駅を結ぶ、地下歩行空間に向かう口の一部は空いていて、地下歩行空間であれば通れるということは判明した。ただ、やっぱり地下鉄が開通するまでは間がありそうだなあと思いつつ、家を出るときに電話したが繋がらなかった職場に、あらためて電話してみる。部署の直通電話なのに聞き慣れない声での応答があった。よくよく聞いたら職場自体にまだ電気が来ておらず、その電話一本だけ非常応答用に仕立ててあったらしい。

…ということであれば長くなってもナンなのでそそくさと切り、その後上司から直に「今来ても電気が通じていなくてすることはないので、通電まで自宅待機で」と連絡がある。いや交通機関があるので大通までは来てますよと答えたら、じゃあ帰って待っていてと。再び市電に乗って帰宅。先ほど乗ったのとは反対方面を行き、降りて、ほぼモノが残っていないコンビニエンスストアでちょっとだけ甘くて乾いたものを買って帰宅。家のそばでは営業している飲食店もちらほら。電車の窓から見えた行きつけの美容室も通常営業のもよう。なにひとつ生産性のあることを為せずに市電一周して帰ってきたていになってしまったのだが、妙に疲れた。

日常と、日常とは遠いモノと、じんわりと混ざり合っている。それが今の状況なのだろうという感覚はある。ただ、(ここからは個人的な話として)出来ることはあんまり多くない。それを感じてしまったら、ああこれからどういうことになるのだろうかというような、トバリがおりてきてしまう。繰り返しになるが、恐らく界隈では「恵まれたほう、という状態」であったから、という感覚もあるし、その割にあまり役に立っていないなあ自分はなあ、とも考えてしまう。人に迷惑をかけないように。なんというか、いつぞやの3月13日くらいの感覚が急にフラッシュバックしたりもしつつだ。

「考える」と「考えない」を上手くコントロールしながら過ごしていくよりほかないのだろうな、と思っている。

きょうから関東1部が開幕するみたいだ。もう少ししたら、ちょっと配信を見てみようかなと思っている。そこに日常を感じるのもひとつの楽しみでやすらぎであろう。むっちゃあまったるいのかもしれないが。