/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

手がものを云う

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手が織りなす表情について、思いを巡らせることはある。
そして、見る者の眼がその手に釘付けにされることも、ままある。

手が繋いでいく(たまに足だったりするし、アタマだったりもするし、手に仕事をさせるのはカラダの他の部位である、ということも、あるけれども)のがバレーボールであるということを、ことのほか感じた時間があったなあと、三周くらい回ってから振り返る。

よく「顔ばっかり見てるんじゃネーノ」といわれることは…なきにしもあらずだが、最近は、どうも手ばかり追ってしまうことはあるのかなと。

手の表情を、そのうち綺麗に描ければいいなあと、絵を描く人としておもっていたりもするが、それはまた追って(練習はしております)。

あのとき言えなかったことに

ごくごく普通の日曜日を過ごしてみた。元々この週末にと予定していた髪を切って、街中で少々買い物をして、帰ってきた。

それぞれのひとびとに、それぞれに生まれ育ったり暮らしたりしている場所があって、そのときそのときこまったことがあっても、そこがその場所であるのだということに、あらためて感じ入っている。

いつもよりもほんのちょっとはやく布団に入って、起きるちょっと前に不意に思い出すのが、2年前の大分へ行ったときのことだった。熊本・大分でおおきな地震が続いた折から1ヶ月強経ったところのことであった。主たる目的の前日に、まだその爪痕の残るゆふいんに泊まって、そこからいろいろな方と言葉を交わして。そのときに感じ入ったことはいっぱいあったんだ、あったんだけど、恐らく、そのときに言葉を向けた側がほんとうに伝えたかったことを、そのときの自分はちゃんと受け止められなくて、ただ自分が伝えたいことを伝えようとしていたんじゃなかろうかと。

いっぱい考えた。

ただ、いつでも、いまでも、自分は自分でしかなくて、自分が感じられる、受け止められることのほかのことについては、どうにも感触が薄くて、今はわかってるなどとは到底言えないし、たぶんなにもわかっていないままなのだろうなと。

深い思慮もないままに、時間は動く。

20160521|Yufuin

日常であれ、非日常であれ。

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たった今、ほぼ全道への送電が再開されたとのことで。ほんとうに、各所、各局面で、たゆまずにはたらきを続ける方々に感謝。反面、今、ここに存在していてオノレに出来ることの少なさに、なんともいえない懐かしいまいなすぱわーを感じるこの頃である。

金曜日にはなるべく出勤出来るように準備をしておいてほしい、と、木曜の夜(その時点では、まだまだUchiも停電中)に上司からメールで連絡があり、金曜日はそのつもりで起きて準備した。ただ、朝の時点で職場に行ける公共交通機関がすべて止まっていたので、その復旧を待ってという話になった。

昼前、市電が動き始めるらしいということを識り、歩いて電停に向かい、そこから市電で市街地の方面へ。職場へは地下鉄に乗っていくのだが、地下鉄に繋がる出口は概ねシャッターが閉まっていた。地下鉄の開通まではまだ時間がかかるということか、と思いつつ、市街地に来たならひとつだけすませておきたい用事があったのを思い出しつつ、降りられる階段を探しながら近辺を歩いてみた。

街中の店という店は8割方閉店していた。前の日から貼られていた張り紙だろうか、休業を伝える張り紙はほとんど手書きだった。よくよく回っていたら、大通から札幌駅を結ぶ、地下歩行空間に向かう口の一部は空いていて、地下歩行空間であれば通れるということは判明した。ただ、やっぱり地下鉄が開通するまでは間がありそうだなあと思いつつ、家を出るときに電話したが繋がらなかった職場に、あらためて電話してみる。部署の直通電話なのに聞き慣れない声での応答があった。よくよく聞いたら職場自体にまだ電気が来ておらず、その電話一本だけ非常応答用に仕立ててあったらしい。

…ということであれば長くなってもナンなのでそそくさと切り、その後上司から直に「今来ても電気が通じていなくてすることはないので、通電まで自宅待機で」と連絡がある。いや交通機関があるので大通までは来てますよと答えたら、じゃあ帰って待っていてと。再び市電に乗って帰宅。先ほど乗ったのとは反対方面を行き、降りて、ほぼモノが残っていないコンビニエンスストアでちょっとだけ甘くて乾いたものを買って帰宅。家のそばでは営業している飲食店もちらほら。電車の窓から見えた行きつけの美容室も通常営業のもよう。なにひとつ生産性のあることを為せずに市電一周して帰ってきたていになってしまったのだが、妙に疲れた。

日常と、日常とは遠いモノと、じんわりと混ざり合っている。それが今の状況なのだろうという感覚はある。ただ、(ここからは個人的な話として)出来ることはあんまり多くない。それを感じてしまったら、ああこれからどういうことになるのだろうかというような、トバリがおりてきてしまう。繰り返しになるが、恐らく界隈では「恵まれたほう、という状態」であったから、という感覚もあるし、その割にあまり役に立っていないなあ自分はなあ、とも考えてしまう。人に迷惑をかけないように。なんというか、いつぞやの3月13日くらいの感覚が急にフラッシュバックしたりもしつつだ。

「考える」と「考えない」を上手くコントロールしながら過ごしていくよりほかないのだろうな、と思っている。

きょうから関東1部が開幕するみたいだ。もう少ししたら、ちょっと配信を見てみようかなと思っている。そこに日常を感じるのもひとつの楽しみでやすらぎであろう。むっちゃあまったるいのかもしれないが。

さしあたり、無事にしております

昨日(9/6)未明に道南胆振(いぶり)方面を震源地にした大きな地震が発生し、札幌もそこそこ揺れた。てれびのニュースを見ていたら「停電の恐れがあります」とアナウンサーが言ったところで突然てれびが消えた。停電になったのだった。

幸い、Uchiの場合は大きなモノが落ちてきたり怪我をしたりということもなく、停電はしたが、水道とガスは通常通り遣えた。シゴトバも急遽休みになったので(何せ停電中なので動きようがない)、自宅待機にて、家中の懐中電灯をかき集めて電池を入れたり、携帯ラジオ(競馬を見ていた時期に買ってた短波の入るコンパクトラジオ)を引っ張り出してニュースを聞いたりと、明るいうちは電気無しで出来ることをじわじわとやっていた。絵の練習も捗った(ぇ)が、停電なのでWebやPCの中にあるテキストやしゃしんは見られず、ずっと前につくっていたアルバムのしゃしんや、この前いただいたお土産(リオレーナキューブ米)のしゃしんを見ながら初めて水彩で絵を描いてみたりした。顔の向きや形や角度を取れるようになった…かな。ただ、そのあたりのときは、携帯の基地局が逝っていて、ずっと圏外で、ああこりゃ携帯側の電源があってもどうにもならんなあなどと思っていたのであった。(なので、てれび見られない人への配信の案内とか、らじるらじるの案内など、ついーとをありがたく受け止めつつも、結局そちらの方向を見ることかなわず)。

昼過ぎからは復電する施設やごかていもあったようではあるが、日が沈むタイミングではUchi界隈は回復に至らず、結局夕飯はろうそくの下でいただくこととなった(冷蔵庫の中味から、足がはやそうなモノ最優先で起用)。それはそれでムーディーだと思ったら、その頃回復していた携帯電波を通じてついったーを見たら「星空を見たら綺麗らしい」ということがわかったので、ちょっとだけ外に出て空を見上げたら、それは札幌のモノとは思えないやつだった。ぐおおおおおおおと迫ってきたんだった。

とりあえず懐中電灯はあるものの、自然の摂理に従って暗くなったら寝ましょうってなテイで早々に布団の中に入って、寝ていたら急にてれびの音が聞こえた。てれびつけたまま寝ちゃって目が覚めたときのような感覚だったが、よくよく考えたら、え、ひょっとして…??という状況で(あ、ブレイカーは日中落としていたのだが、気になって右見て左見てまた右見てつけてた)。

ほんとうにいろいろなところでいろいろな方が奮闘している状況に感謝しつつ、少しずつやれることをやるしかないのだろうなと。

長くなったがこちらはこんな感じだ。たぶん界隈全体からするとなんとかなっていた側のおはなしだろう。たいへんなところのたいへんな状況がひとつひとつ解消されることを願いつつ。ふんばってまいりましょうなのである。

境界線

ひょんなことから手書き(この時点では「書く」のほう)にハマリ、なんだかんだいろいろなものことを書くようになって、書くためのものを求めて文具屋さんに行ったりしていた。文具屋さんもいろいろあるが、やっぱり札幌のエースは大丸藤井セントラルだ。異論はあるかもしれない。

その過程で、あるとき、水彩色鉛筆ご自由に24色特売に出逢った。水彩色鉛筆といえば、かなり昔に遣っていたものはあれど、今更ご縁があるようには思えなかった。思えなかったのだが、何回か躊躇した挙げ句、いつの間にか一揃え揃えていた(1本200円強する、FABER CASTELLのART GRIP AQUARELLEというやつが24色自由に選べて、缶に入れて半額くらいで手に入った)。家にあった葉書サイズの紙に、いろいろ描いては色を塗って、水筆でその色をのばしていた。

絵を描いていたら、なんだかんだで思った通りに紙に表現出来るようになったらいいなという気持ちに、そのうちなっていく。いっしょうけんめい形を捉えようとするものの、どこかしらどうでもいい筆致になるところがあるなあと思い、じゃあどう折り合いをつけたらいいものかと思って、ネット内外のいろいろなところを巡るようになった。描いている動画を見つけて唸ったりもした。

最近は、まずは描きたいのがひとのかおであるというところから、はてなブックマークのホットエントリー経由で識ったPixivの「Sensei」だとか、Hitokakuだとか、いろいろ見ながら鉛筆を動かして練習するようになった。その過程で、人間の顔や顔のパーツってこういうつくりであるとか、比率はこうであるとか、そういうことを徐々に把握していったらだんだん自分の中に芯が出来つつあるなあということに気がついた。

生まれて物心ついて絵を描き始めた頃には「自由な発想で」とか「伸び伸びと」とかいう言葉が、絵を描こうとする者に響いた記憶がある(そういえばヴォレアスホームゲームで見たこどもの絵もそうだったなあ)。そういえば、法則とか寸法とか比率とか、どの時点でどう学ぶものなのかなあと、ふと思ったのだが、思い出せなかった。そういえば、オーバーパスだって、そうだったなあとか。「やってみよう」と「どうやるの」の境界線がもうちょっと緩やかであれば、もっと上手く出来たことってあるのかもしれないなあと。自分が得意なことについては、自然と境界線を越えられた、というだけなのかもしれないなあと。

いやそれは○○の時点で教えましたからと誰かに怒られるかもしれない。概ね、教える側のではなく受け手側の問題なのかもしれない。