どうして、いつも、そうなんだ。
どうして。
ここ1週間くらい、繰り返していたことばだ。
殊に、今は、新型コロナウイルス観戦拡大防止の観点で、移動も、会話も、コミュニケーションもままならず、しかも半分仕組みの問題なのかもしれないが、届け出のほうが先に通って反映されちゃったからなのか、「えっ、登録されていない人がいるぞ」というのが先に可視化されちゃって、公式のことばがあとになってついてきて、それから徐々にことばが追いついてきた。
報せというものは、いつも突然やってくる。突然報せがやってくるときには、大抵、まだ、終わったシーズンのことを振り返りきれていない。振り返りきれていないうちに、報せはやってくる。そこで見た時間がどんな時間であったか、整理ができないうちに、新しい景色を待つ日々が、勝手にやってきてしまう。
じゃあ、どうなればよかったのか。考える。考えるけれども、考えるたびに、答えなど見当たらない。公式がそうしたように、すばやく、そのときそのときを、整理していくしかないのかもしれないが、整理できないままにシーズンが終わってしまって、そこからの、今なんだろう。
見たときに「どうして」と思った。読んだときに「どうして」と考えた。仮に、じゅうぶんに時間があって、きちんと心を整理できて、其処を去る方々に、ちゃんと筋道立てて挨拶とお礼ができれば、また違ったのだろうか。あるいは、仮にそう出来たとしても、しばらく、何年も何年も、引きずるのだろうか。
このチームを見るものとして、何年分も、じゃらじゃらとひきずりながら、でもやっぱりこの場所にいるのだろうか。時間が少しずつ整理してくれることを期待しながら。いや、それでいいのか、そうなのか。
シーズンを振り返りながら、ハンケチをそっと振りながら、ひときわ、出せるものを出しきれなかった、燃やすものを燃やしきれなかった、そんなシーズンを振り返りながら。だから次のシーズンをどう迎えるのかを考えていたのだけど、おそらく、ぜんぜん違うスタイルで、次のシーズンがやってくるのだろうと考えてみたのだけど。
それぞれに、短い、難しい時間であったけれども、この色のユニフォームで、見られたことに(いや、まだまだ見たいのだけど。まだまだ見たいがつよいのだけど)、感謝をしなければ、なのだろうけれど、しなければ、と言ってる時点で、既に、わたしのことばとして、消化出来ているわけじゃないのが、ばればれですな。はい。やり直し。