嬉しさ駆動であった。というよりはまず、駆動したんだということが嬉しかった。
終わったばかりのシーズンを振り返っている。振り返るという行為なのかどうか自体もよくわからない。ただただ、しゃしんを眺めてぼーっとしているというのが正解かもしれない。
自分がなにをどうすきであろうと自由だし、どうすきであるかをことばにすることも自由だ。だけど、何かが展開されているその場所を前にして、自分がすきであることをまっすぐにそこに投影させることが出来るとは限らないし、しばらくそういうことを出来るとは思えなかった。おさえていた、というのも、あまり正直な表現ではない。
自分が望んでいることをあらわにすることを、いつの時からか、しちゃいけないと思っていた。いや、しちゃいけないというのも、ちょっと正確ではなかったのかもしれない。
きょねんではなく、4年前の。5月の。あの洞峰公園から、すこしずつ積み重ねてきた気持ちの襞ではあったのだろう。いっぱいいっぱい閉じ込めてきたんだなと。
きょねんの夏におおきな変化があった。
前夜のなんとも言えない不安。泣き出しそうになりそうなざわめき。それも懐かしく。
— でぐちきり (@dhalmel) July 13, 2018
明らかに「戻ってきた」し、また「動き始めた」。まっすぐにつながった。はっきりとし始めた。暑い熱い夏から、夏とは思えぬ肌寒さから、そして大きな動きと報せがあって、シーズンが始まった。
始まったシーズンから何がどう動いたかを追うと、順風ばかりではなかったし、その場には憂いも嘆きも少なくなかった。だが、その実体を追うと、突き動かすものがそこに在るということ自体が嬉しかったのだと、自分にとっては呆れるほどそこに至る気持ちのほうがつよくなっていたことに気がついてしまったのである。つきつめられること、つっこめることじたいが嬉しいというそういう不思議な気持ちに為っていた。
不思議なシーズンだった。不思議なシーズンだったが、まず、自分にとっては、おおくの動力がそこに在った。ひとつひとつの思いを閉じ込めていたみどりのチューブから、堰を切ったように、駆動した。その駆動の源は、まず、まっすぐに、嬉しかった、だった。
次の稿から、各論に移…れるかどうかはわからない。どこかで、ちゃんと次の段階に進みたい。いや、進めること自体、思いも寄らないことだったけれど。