/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

補欠選手のさいごの試合CMを見た。雑感。

Inspired:バスケ補欠選手の『最後の試合』を描いたCMが感動的だと話題 / ネットの声「マジで泣きそうになる」 | ロケットニュース24
ここに貼られているCMを見て、ストレートに泣きはしなかった。「バスケ部の補欠」役に扮する少年がかこええなぁとは思ったが(誰も聞いてないっしょそれ)。

大きく分けてふたつのことを、もやっと考えた。

1.「補欠」がいる、という状況

競技に必要な人数というものがあって、ベンチには定員というものがあって、チームを構成するメンバーの人数のほうがそれぞれそこから溢れると、溢れたひとは「控え選手」になったり、「ベンチアウト」したりする。このCMにおける「補欠さん」はベンチで待機していたから前者である。

この春、地元で大学のリーグ戦を見ていて、ベンチに戦える選手を揃えることがいかにたいへんなことなのだろうかというところに思いを馳せた。リベロのいないチームで、ひとりベンチから戦況を見つめる新入生の視線を前に、いろいろ物思った。あのチームの控え選手がこちらに出られたらいいのに、と、無茶なことを願ったりもした。
既に、高校などの単位では、部活の大原則である(と思われる)ところの「ひとつの学校でベンチを、いや、コートを埋めることが出来ない」状況が珍しくなくなっている。大会に出る為に部活の枠の外からたすけを借りる必要がある、というケースも、これから更に増えるのだろう。こういう話のほうがリアルになっていくのかもしれない*1友情のバスケ公式戦へ|WEB TOKACHI-十勝毎日新聞

出ることが難しい、という状況にもいくつか種類があり、その違いは「強豪校」「強豪でもない学校」というような括りでは分けられなくなってきているのだろうと思う。単純に少子化がどーとかいう話とも、またちょっと違う。

2.相互作用ってしないのか

このCMをつくったのは「桐島…」の監督さんであると聞く。この「補欠」選手の姓と偶然(?)一致する。
「桐島…」にも、愚直に進むが報われるのかどうかがわからない、という役回りのひとがいたなぁと思う。
ただ、同じ空間に居合わせる選手それぞれが、「レギュラー」だからとか「補欠」だからとか、それだけで何かを分断されてしまうのだろうか。この選手もベンチに入っているくらいの規模で、「レギュラー」な方々の視線にも入らず、省みられず、その姿が在るのかないのかよーわからん、というような状況になるのって、ちょっと変なんじゃないのかな…(練習してたとかしてないとか、というのとは、また別な理由があるんだろうかと勘ぐられてもしかたなかろう)。
実際に試合を見ていると、コートに立っている選手が控え選手から飛ぶ声援に元気づけられるシーンがあるし、冷静に試合を見つめている控え選手がタイムアウトなどで的確なアドバイスをするシーンもある*2。あいつは人一倍練習を積み重ねているしというような畏敬の念も生まれる。そのあたりがずいぶん大ざっぱな対比の中に埋もれてしまってるんだなぁ…とは思った。勿論1分半の中にそのチーム(の中のその人)を際だてて表現するには限界なのだろう…とは…思うけど。
CMに出てこないサイドストーリーをいろいろ妄想してしまう。そうせずにはいられない。

考えるきっかけとしてのCM。映像。そこに込められたストーリー。
「ヨシダくんはもーちょっとシュート入ればええんだろうけど」と思いつつ、それでも頭をぐりぐりと転がしてしまう。

*1:別にバスケだからというわけではない

*2:バスケでいえば今シーズンずいぶんヒルキさんのそーいうシーンを見たなぁ