/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

信じるも信じぬもおまえさん次第

ワールドカップが始まっているのだが、拙ブログはいつもながらのいつも通りである。ワールドカップの時も、世界選手権の時も、オリンピックの時でさえ、何かテンションが変わった気配はない。だいたい、アクセス数は増えたり増えなかったりするのだが、今年は春高予選の記事も書いたからよくわからないやヽ(´―`)ノ

まぁ年中半袖でバレーボールを見ているようなテンション*1なもので、「大きな大会があるから盛り上がっている」という感覚が既に自分の中に無いのかもしれないなぁと最近気がついた。しかし、自分の中では「無意識にそちらにアタマが向かわない」のと「意識してそちらにアタマを向けていない」のと、どちらなのかはやっぱり怪しい。

「意識して」であろうと思う理由は、地上波でのテレビ放映を伴う大きな大会が始まり、普段バレーの話をしない方々からバレーということばが出てきたりする時期に、大抵自分が心身のバランスをちょっと崩すところにある。なぜ崩すのか、崩れるのか…を考えていくと、大きなメディアがいつもより多くバレーボールを伝えている、そんな非日常に対して、上手く対峙できていないんじゃないのかな…というところに思いが至る。

たまたまついーとをきっかけに拝見した下記エントリをきっかけに、なんとなく考えがまとまった。先に断っておくが、良い悪いではない。
http://ameblo.jp/corapiston/entry-11073221967.html

いつも自分がバレーボールを見ていて感じることと、大きなメディアによって報じられることとのずれ。そしてそれを指摘する「バレーボールの本質を見ようとする」ファンがメディアに「対して」論戦を張ろうとすることへの心の動き(結局「そんなこといったって…」と思いながら聞いているところはあるんだろうなぁ)。

結局、いろんなことが対立風味に為っちゃうところが非常にめんどいんだろうなぁ。正しいとか間違ってるとか良い悪いとかそういうのええじゃないか、見てて楽しいとか心を動かされるとかが先じゃないかと常々思うし、結局自分が見るようにしか対象は見えないのだから、誰が何書いててもええじゃないかくらいまでイっちゃえば良いのだろうが。必ずしもメディアは信じる対象でも信じられる対象でもないし、…とは考え始めたが、そういうことじゃないのかもしれないな。

自分ではない、目に見える、または見えない誰かへの影響を考えるというのはあるのだろうな。「プレイヤーにいい影響を与えない」とかそういうのは。でも、幸か不幸か当方においては仮想ナンチャラを考えなければならない状況にはないので、いろんなことを吸収しつつ(あるいは入力してもはねのけつつ)、好きにすればよいのだろうな…と。記事や解説を「信じる」「信じない」ではなく、あくまでも自分が見て(テレビでもなー)感じたところを原点にする。間違っていたって*2良いじゃないかにんげんだもの。そういうスタンスでいく。あくまでも此処に書いている限りは*3

此処には誤ったことも何かズレたことも変なこともいろいろ書きますしそういうことを考えるような土壌でみてますよーだ。以上。

*1:実際にはVの季節にはダウンジャケット着て震えてたりするが

*2:固有名詞など、正解があることを間違えてもええという意味ではなく

*3:またデグチさん発動するときはこの限りではありません