/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

大学バレーの件。出来るだけ冷静に書く

タイトルでそう書いてる時点で、恐らく冷静じゃねーし、冷静にもなれないのだろうが、気のせいだ。たぶん。
IBU
[2008:撮り始めたときのとても懐かしいしゃしん]

今季、実は関東1部に行く予定はなかったのだ。というか、諸々のスケジュールを鑑みると、行く予定を立てられる状況ではなかったのだ。北海道の開幕が例年より早い上に、その開幕戦も見られない、みたいな状況であったがゆえに。自分が行くわけでもないのにああああああああと思ってしまっているのは、恐らく、その場にいらっしゃるであろう、いろいろな方々の、肉声とか肉しゃしん(なに)とか肉文(だからなんだそれ)とか、そういうものが見られないのが寂しいのだろうなと。どんだけ他力本願ですかわたくし。

それはそれとして。

つい数年前に、大学界隈の試合会場の入りについて「寂しくて」という声が各所で在った。どうしたら、ひとりでも多くのひとがその場所に行って、そのプレイを見て、という機会をつくれるのだろうか、ということを、夜を徹する…そんな元気は既にないから電車がなくなるかもしれないとどきどきしながらくらいのテンションで…誰とでもいっぱいいっぱい語っていた。突出した誰かがそのカテゴリに在れば、そんな心配するまでもないし、そもそも望む総てのひとをその場所に導くこと自体が難しいのだよ、という、そういう答えが欲しいわけじゃなかった。

いろいろなことを考えた。否、考えている。結局、ループした末、コートとその周りにどういう登場人物があって、その登場人物にどのような役割があるか、ということを考えることになる。見ていた者は、その間に隙間があったから、見ていられたということなのかもしれない。いろいろ考察を進めれば進めるほど、結論はそこに近づいていくし、それで仕方ないのだろうと思うに至っている。総てのもやもやは、見る者としてのオノレが我慢すればどうにでもなることなのだと。

でも、そうだったのかな。

恐らく「現状」が、「ある突出した誰か」の存在ゆえに起こっていることなのであれば、目を閉じて時を経れば、もとどおり、にはなるのだろう。でも、あのとき望んでいたのはそういうことなのだろうか。現状が「物理的、論理的なるキャパシティの限界」ゆえに起こっていることであって、それを「目を閉じて時を経る」ことによって、なんとかしようという結論を得たのか、或いは、引き続き、どうなっていけばよいかを考えていくけれども、今回はこうせざるを得なかった、ということなのか。

以前書いたフレーズなのだが。

初めて見るきっかけは何でもいいのだろう。ちょっとテレビや雑誌で気になっていた選手がいたからとか、知り合いが出ているとか、ともだちに誘われたとか。初めて見て印象に残った何かをきっかけに、ちょっとずついろいろ気にして周りを見てみると、どんどん面白さが拡がっていくのが大学バレーの魅力であり、魔力である。

大学バレーの息吹 - /ja あやつる YmrDhalmel

そういう機会が減ることは残念ではあるのだが、それでも…ぷりっぷりの、味わい深い何かが、どこかも知れぬ会場から溢れ出てきて、それが伝わってくることを楽しみにしつつ、どこかの会場にやっぱり向かうことにする。

そういえば

一般の会場ってなかなか空きがないのだよなぁというのは知識としてはあったが、その中で大学バスケの開幕戦が代々木二体だったり、カピオセントラル5試合バスケ漬けみたいなことになってたんだなぁというのには素直に驚いた。