総ては、トチュウケイカだと。
先週火曜日の昼間に、ついったーで、こんなことを書いていた。
何をもって上手くいったというのかも微妙に難しくて。
@moto_vb そもそもベースが何処なのか、というのもひとつ。個人的に思うのですが、ものになるとかならないとか、ものにたいしてじゃないから、あんまり思いたくないんですよね…
誰かが育ったとか、成長したとか、結果を残せたとか、戦力になったとか。それを望む向き(チームを立てるひとにも、見てる人にも)にはとても大事だし興味深いテーマなのかもしれないが、対象として見ているのがひとである以上、個人的には、あんまりそういうふうには考えたくないなと思っている。ましてはそれで「ジャッジする」など、とてもじゃないけどできない。
それでも、そのはたらきが数字になる(その数字の基準に意味があるかどうかという議論はべつにして)競技や、競技の中でもそういうポジションに在る場合は、それを見て考えるところはあるのかもしれないが、数字が出にくいポジションの場合は、更にその「難しさ」は顕著になるんだろうな…と、やりとりを重ねながら思っていたのだった。
でも、そのときそのとき、その瞬間その瞬間、あるいは、期間という長い時間の切り取り…すべて、そのときの「結果」という、一瞬ピリオドに見えるものも含めて、すべて、途中経過として、その前後のそれぞれを形づくっていくだと。今、その意をつよくしている。
その場にとどまるひとにも、その場を去るひとにも、ある時間を共有したという途中経過があって、そこから、道は分かれていく。
途中経過は、もうちょっと先に進んでから思い起こすひとつのパーツにはなれど、そのときそのときに決めつけるためのものではないと。そう思いつつ、途中経過を見守り続けて行きたい。