/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

バレーボールの「ポジション」についてどう捉えるか

Inspired:サッカー派と野球派はなぜ仲が悪いのか?
タイトルはすぐ忘れましょう。それを主題にして煽るつもりはないのだす。そして、あくまでも、バレーボールを見るときの自分の目線を、ここから考えてみたい。

20140510|HUEKushiro-AsahikawaMed

印象に残ったのは、このあたりのフレーズ。

つまり、大雑把にまとめると、野球選手はキャリアの中で「同じこと」を物凄い回数練習し、技術を磨き上げ、それを披露する「一所懸命」型のスポーツであるのに対して、サッカー選手はキャリアの中で常に「全くあたらしいシチュエーション」に出会い続け、その場その場での創意工夫を披露し続けることが求められる、「千変万化」型のスポーツだということです。

これを読んで、バレーボールには、その両方の要素があって、見る側が、その両方の要素を適度に織り交ぜながら、それぞれに重みを置くところを違えながらいるんだろうなと思った。

バレーボールのコートには、特定の場所が隆起してるとか、その場所に誰が固定しているとかいうことはない。自陣は(アタックラインはあるけれど)正方形で、その周辺に拡がるもろもろはあるけれど、その中で、コートにいる人がローテーションする。それは、一見「千変万化」そのものに見える。
ただ、学校の授業で「やる」バレーボールを越えて「見る」側に立ったときに不思議だなと思ったのは、それぞれのローテーションごとに、それぞれの立ち位置が(チームの中で)決まっていて、そこにだだだっと移動することだったのだ。セッターにはセッターの、ミドルにはミドルの、サイドにはサイドの立つべき(と、チームで決めている)場所へ。

ラリーがひとたび始まってしまえば、コート上の各選手はどの【コート・ポジション】に入ってプレーしても構わないし、ラインナップ通りの位置関係を保たなければならないわけでもありません。しかし、「ラリーの開始時点」すなわち「サーブが打たれる瞬間」だけは、各選手がラインナップどおりに並んでいなければなりません。

ミーハー排球道場 第1回 | バレーボールマガジン

ばいぼーのごとくしばしば思い起こす記事を引用してみたが、ひとことでいえばそういうことなのである(そして、たぶん授業のときは、最初に並んだところから移動するという発想までは至っていなかったのだ。なぜならば、役割が決まっていないから)。

バレーボールでしばしば発動する「一所懸命」の「一所」とは、最初に並んでいるその場所ではなく、ラリーが始まったときに立つ位置のことであり、しばしばその位置と役割については「ポジション論」的な位置づけで(主に何かの枠に沿って誰かを選ぶときなどに)気にかけられることなのだ。それで、しばしば「ポジション」という場所そのものに、何らかの「共通した」意味があるのだろうかと考えてしまうのだろうな。それが「一所懸命」の考えをベースで見ているともなると、なおさら。

でも、往々にして、それは、見るすべてのチームにおける共通語ではないのだということに、しばしば気がつく。関東ではおなじみの順大が時折かます3セッターとか、ほかいろいろなシチュエーションを、コレまで見てきていた。いろんなところにいろんな形があるのだろうなと思っているが、最近わたしが見た中でいちばん、なんだかよくわからないけどじわじわと染みてきていたのが、春に見た北海道教育大学釧路校(冒頭のしゃしん:通称せんきょう)だった。それぞれのローテごとに、わくわくした。別記事をまとめているときに、ああ実は4年が多いのだなぁとどきっとしたのだが、秋にもっともっと1ローテごとにわくわくしながら見たいので、もっとやれーと期待を込めているところなのである(特に、4人コートにいるサウスポーのうちのひとり、エース的な位置づけにある#2がセットアップに入るローテーションがすきだ)。

セッターの立つ場所が、こんもりと盛り上がって、お立ち台になっているわけではないのだが、時折そんな錯覚にとらわれてしまうことがあるのは、恐らくヤマイの一種。そのあたりについては、またのちほど。のちほどっていつだ。