どうしようもないループについて書き留める
またしても応援しているチームからベストスコアラーが出た(一般論)。わたくしとて、特定のアタッカーに集中して「そこだけ?」になるような展開を特段好んでいるわけではない*1。ないんだが、結果的に、そういうケースに遭遇することが多い、だけだ。
週の初めにcanaさんのエントリを拝読してコメントを書いて、書き手に過分な忠告?をいただいたにもかかわらず、往生際の悪いわたくしは、まるまる1週間眠りにくい夜を過ごしてしまった。さきの土日のつくばには「特別な事情」が過分にあったが、それでもなんとか別の?方向性はあるんじゃないだろうか、あれでよかったんだろうか、ずっと考え込んでしまっていた。「インサイドワーク」的な何らかのこと、なのか…。とか。神を引き出せたのか、なのか、神がいたのに、なのか。
先ほど引いたコメントに書いた「直接関係ない試合の記憶」とは、ほかならぬ、2009年12月に見た、全日本インカレ4回戦・日体と中央のフルセットのことである。日体には高松が、中央には千々木がいて、最終的にはその打ち合いになった。ただし、エースの打ち合いの中でも上手く「しな」をつくれていたのが日体のほうで、最終的にはその差が何かを分けたのだろう、という考えには、どうしても至る。
わたしがこの前書いたエントリからZenbackのおかげで派生して、先日久々に拝読したエントリが、この試合のあと(年を挟んでいるが)に書かれたものであり、初めて読んだときには多分にこの試合を思い出しながら読んでいたんだろうな…と記憶を紐解く。最近、こちらのブログでセッターについて書かれているものをピックアップして読むことが多い。読みながら、一貫して流れている大きなものを感じている。
自分の決断に対して責任を持って、覚悟を持ったトスを上げられるか
決断に見るセッター論 - Stay Foolish
世のセッターは、日々チームでいちばんたくさんボールに触れながら、その瞬間瞬間で、おびただしいほどの判断と覚悟と決断を繰り返してきているのだ。そのことに改めて目を見開いた。はっとした。評価とか好みとかその他もろもろ…は、その先の+αの部分*2で振り分けられるんだろうな、と。
だからいわんこっちゃないのだ。自分のような者が咀嚼するには大きすぎるテーマだし、太刀打ちできるわけがないのだ。
「あのとき、どうだった」というのは、結果論に過ぎないのだけれど、恐らく、なかのひとたちは、日々其れを消化しつつ、次のボールに対峙しているのだろう。そう思うと、目頭が熱くなるのである*3。
次に、警視庁のセッター中道を見るまでに、書き留めておきたかった。
#金曜の夜に見たセミファイナルで、終盤にさきの週末を一気に思いだして、逃げ出したくなった。ペピチ…(個人的には第1セットの佐川がおもしろかったなぁと思ったし、だな)。