/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

自分の「好き」を見つめていたが、結局「好き」であることしかわからなかった

ついったーにはハッシュタグなるしくみがある。
ついーとするときに、ハッシュタグをつけるかつけないか。それはついーとする者の勝手であって、つけたければつければいいし、つけたくなければつけなければいい。ハッシュタグで括って検索すると、同じハッシュタグのついたついーとをまとめて読むことが出来るけど、気が向いたらハッシュタグを追ったらいいし、気が向かないのなら追わなくてもいい。

ハッシュタグをつけてついーとすることによって、そのついーとは自分のアカウントをフォローしている人よりも「広く」、あるいは特定の興味対象に「絞られて」伝わることとなる(当方はただいま1100アカウントほどをフォローしているが、ハッシュタグには「広く」と「絞られて」どちらの感覚もある。が、どっちかというと「絞って」書いてる感覚の方が強いかも)。ついーとする側はねらいを定めて意図するところをつぶやく。コントロールするのは読み手の裁量でやればいい。

それでいいはずだ。少なくとも自分の中では、おそらくとうの昔に通り過ぎてた話のはずだった。

特定のハッシュタグを通しで読んでいるうちに、そこに展開されるついーとに力があるがゆえに、刺さってくるがゆえに、自分の中でコントロールできない課題がぐわわわわと拡がってくることが気がついた。概ね、ハッシュタグがつけられたついーとに多い主張そのものは割とすんなりと入ってくるので、「何か言いたいことがあるんだったらタグつけて書けば」という案件ともちょっと違う。主張そのものではないところで、時にちくちくと刺さってくるものがあるのだ。そして刺さってくる原因は概ね自分の内面にあって、つぶやきそのものとはあまり関連性はない。

最近とみに「好きだってどういう状況のことをいうのだろうか、『好き』って言っちゃっていいんだろうか、自分がそういうことで『好き』な対象に悪い影響を及ぼさないだろうか…」ということを考えていた。じぶんひとりがどうであったところで大勢には影響はなさげなので、思い上がりもええところではあるのだが、それでも「関係*1のない客俺ひとり」的な場所に多く身を投じると、どうしても。

最近「好きである対象に失礼じゃないのか?」というフレーズが、アタマの中に残りすぎて、「好き」なものを見ながらその「好き」ってどうなんだろうか…とちょいと考えを巡らせていた。いつも見ているハッシュタグ界隈からも、考えを巡らせてみた。

結局「好き」でしかないんだろうな…と、思った。

もうちょっと弾んだように書いてもええのかな、とも、思った。ドリカムの曲にもあっただべ、「うれしい!たのしい!大好き!」って。そういう方向性で、ええんかな、と。だれかの「好き」とは、また違うのかもしれないけど。だれかの役に立つことばかりじゃないのかもしれないけど。それでも、弾んでてええのかな、と。諸々はじけるものと思われるので、よきにおはからいを…

最近ようやく道ばたでふきのとうを見るようになった。あと6日でリーグ開幕。

思索のメモ

*1:親とか同級生とか恋人とか…