/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

選択のこと

甲子園でおこなわれていた選抜高校野球は、休日に見られる分しか見られなかったのだが、ちょうど昨日幕を閉じたところだった。北海道代表の遠軽21世紀枠)も北照も勝って負けた(あ、北照は、「勝って勝って負けた」か)。
度重なる接戦、延長戦をほぼひとりで投げ抜いた投手の投球数の多さについて「なんとかならんかね」的な話が、ここに来て非常に論議を呼んでいる。ちょうど2戦目くらいの頃についったーである方とディスカッションをしてみたのだが、そのときは「ファンは問題視してるけどメディアはなかなか踏み込まないモンダイになっていて、それには理由があって…」というような話で終わったような気がする。著名な論客がツッコむとちゃんと沸騰するのだな…と若干ぐれつつ(それちがう)。

この件を聞くと、どうしても、高校を出て上京してすぐに同じクラスになった、とても野球が上手いはずのクラスメイトを思い出す。
当方が入試を受ける、そのかなり前にそのひとは同じところに進学することが決まっていた。合格して上京すると行ったときに、それを知った友人などに、そのひとに「よろしく」といわれてしまうくらいだった。いまにして思えば、野球をやるひとにしては線が細かったかもしれないなぁと思うのだが、確かに顔はか(っこ|わ)いいのでそうとうモテたのだと思う。
しかし、そのクラスメイトが野球をするところを見ることは、ついに出来なかった。高校までの競技歴における肩肘の酷使が原因であると聞いた。ほんとのところ、どう思いながらこの時間を過ごしていたんだろう…折々に気にはなったがほんとのことはわからない。クラスは同じはずなのに、なかなか学校で会うことはかなわなかったし、今以上に競技に縁のないものがアスリートからちゃんとそのことばを受け取れると思っていなかったし…。

いろいろ周囲のひとびとが、回り込んで、あれやこれやと考えつつ、将来を嘱望されるアスリートを導くために道を固めておいてあげたり、負荷がかからないようにしてあげたり、それは大事なことなのかもしれない。いや大事だ。でも、「〜あげる」って、やっぱり、縁がなかったり、感じられなかったりする者から発するべきことばではない。少なくともわたしはそう思う。

一歩踏み込んで「進路」を決めるときには、多かれ少なかれ本人がちゃんと本人の意志を以て「選んでいる」のだろうと思う。周りが回り込んで心配するよりももっと、あらゆることを考えているのだと思う。あとで思うともしかしたら若気の至りだったんじゃねーのということはあっても、その局面局面では(もっと近しいひとの助言をもらったりしつつ)ちゃんと選んでいるんだと思う。

まぁ、「本人」が「選ぶ」ことすらままならないというのであれば、また違うのだろう、そう思いつつ。

新学期、新年度…が始まっていろんなひとが新しいところに身を投じたり、新しい立場に立ったりしている。そのそれぞれに(自分のことも含めて←テヘ)幸いがあるように…と願いつつ。