見ながら、そこで泣いてもよいのかと考える
- スポーツ中継って何であって何でないのか
- 番組をつくる側は、主に番組を観るターゲットに対して最適化を図ろうとしてつくって放映している
- つくる側には「番組の最適化」であっても、視点によっては素直に受け止められないことがある
- 番組の目的は、その競技の醍醐味を伝えることであるとは限らない
- 番組の演出に引っ張られて見て反応して後悔することがある
- 感動ってなんだろうか。競技の中心にいる者ではなく、それを観客席から、あるいはテレビで観る者にとって
- そこで感動するのは発信側の思う壺ではないかと思う状況にぶちあたる
男子決勝は激戦の末大村工業が勝ち、優勝した。良い試合だったと思う。そのことはどうやっても否定しようがないのだが。
機会と状態
ちょっと前にこんなエントリを書いた。→「鶴の折り方」 - /ja あやつる YmrDhalmel
きょうは若干これを修正しなければならないのかな、とついつい思ってしまった。「トーナメント」で「またとない大事な機会」しかも「最後」とか言った場合に、ここに書いたことを貫けるのかどうかと。
しかし、それが最後の試合であっても、もう次がないにしても、貫かなければならないことは、そこで無茶をした(強いられた)多くの先例が如実に語っている。
…とはいえ、「それが最後だ」「ちっちゃなころから一緒にやってて、その絆が」「ここまで積み重ねたなにかが」と振られて、「でもそこ無理するな…!」と見ながら言えるか。思ってても、あるいは思わずに「そこをなんとかがんばれ…」と期待をかけるひとたちがほとんどである状況下で、ちゃんと休ませられるチームばかりかどうか。いろんな期待が溜まっているところで本人が「出ます」と言ったときに、ちゃんと止められるチームばかりかどうか。
ふと考えを巡らせた結果、それが「全国からの代表チームが一堂に集まったトーナメント戦」で起こる問題であるとするならば(過密日程にならざるをえないことを含めて)、まずそこをいじらなければどうにもならないんじゃないのかなという結論に達してみるわけなのだが、それこそ壊すのがとても難しいだろう。
高校でのチャンスは3年しかなく、大学でのチャンスは4年しかない。「そこでは」有限だ。それぞれの競技者のそれとしてのキャリアが終わるわけではない*1、と割り切れることばかりではない。何らかの形で競技を続けるにしても、続けないにしても、ひとつひとつの「区切り」がある。
ひょっとして、見る側が、それぞれの「区切り」に対して、必要以上に感情移入しないほうがいいのかな…と考え始めると、じゃあ、自分はいったい普段何を見て何を感じて何に心を動かされているのか、そこについて必要以上に考え込んでしまった。
…というようなことを、実は年が明けてから、1月2日あたりからずっと考え込んでいる。
まぁひとりの末端のファンが何を考えてもそれは大勢に影響はないのだろうになぁ。あふぉかと。
*1:上位リーグに行かないにしても、何らかの形で続けていったりするわけで