/ja あやつる YmrDhalmel

バレーボールを見た記録が多いです。主に北で、たまに南で。

「残念」の飼い方

昨日CSに敗れた日本ハムについて、地元新聞は暖かい見出しをつけていた。「よくやった」「おつかれさま」というトーンで、これを限りに退く監督は笑顔をみせて、それをねぎらって…という内容に終始していた。昨日の試合をテレビで見ていて、ホームで二連敗にてついた決着に対して、まず残念だったり、反省点が上がったり、ということなんじゃないのかな…となんとなく思ったので「新聞、そんなもんなの?」と(実家にいたので)家族に聞いてみたのだが、どうも「あまり批判的なことを言ったり書いたりしたら、『ほんとのファン』に怒られる」らしい。近所、同僚、その他のコミュニティでほど遠くないところに、熱心なファンがいるようなのだが、どうも…そういう気の廻し方は、必要らしい(そりゃ必要だろ?という影の声はある)。

まぁそうだろう。いろんなスポーツで、応援しているチームが活躍したり勝ったり優勝したりすれば、それはそれに越したことはない。ただ、勝負事であるから、必ずしも応援する者の意に添える結果が出るとは限らない。
そういうときに、「見る者」は、そこから何を感じ、何を顕せばよいのか。あるいは、意に添えない結果を受け止めようとしている当事者を気遣い、何も顕さないのがよいのか。

実は、リーグ(この場合は関東大学1部)の最終週からまっすぐこちらにきて、2週間ばかり、なんとも心の整理が出来ない日々が続いている。
目の前に見えていたものが急に遠くに消えた。目の前で見たかったのは、「2」ではなかった。やっぱり「1」だった。「長いリーグを乗り切っておつかれさまでした」は確かにそうだ。しかし、やっぱりなにかは心に引っかかった。
否、引っかかったとか残念だとか惜しいとか悔しいとか、そういうことばを、ただ見ているだけの自分が発して良いものか、ということが、やっぱりどこかでぐるぐる引っかかって廻っているのだ。

見る者は「当事者」ではない。たとえば応援するときに「俺たちの」と意識付けをしたとしても、それははっきりしている。「当事者」ではない者が、いかにも当事者であるかのように、その気持ちをぶつけても良いのであろうかというのは、実はちょっと考えてしまう(親御さんはええのですよ。思いっきり「当事者」だから)。

自分が観戦する競技の観戦するカテゴリーにおける「区切り」はあと1ヶ月余りでつく。例年であればその途上に練習試合を見に行ったりすることもあるが、ことしはいきなり本番だ。そのときに、どういう心持ちでここまでのことを消化して、どう次の試合を見るか。やっぱり、「残念」などという気持ちも、その形のまま、暫く飼っていかなければならないのだろう。

幻想ばかりじゃやりきれないだろうが。

あの日の試合を見る直前に書店でチェックして、その時は「すぐに読めないだろうから」と買わずにいた月バレを、まだ買えずにいる。もうそろそろ買わないと…