大学バレーの記録周りがパワフルだった件
それこそ今の大学生が生まれた頃のおはなし。きっかけは下記2連エントリー。
ちょうどここにあがっている翌年から大学バレーを見始めたのであった。が、何故か上記事に出ているプログラムは持っている。当時一緒に見ていた方に譲って貰ったんだったと記憶しているが詳細は忘れた。表紙は現慶應の監督ですね。
しかし…「大学バレー新聞」のほうにはほんとにびっくりした。ああ1年の時からガイチはよー打っていたんだなぁとかしみじみ。
ちなみに、この新聞に出ている筑波メンバー(1986)の行き先が大体わかってしまってて、現在のバレー地図にプロット出来る人たちばかりであるというのも凄い。左側に書かれているメンバー表を紐解いてみた(括弧内は当時の学年。敬称略)。
しかしこの帳票すごいなぁ…このクラスの数値がわかれば、ほんと有り難いんだよなぁ…PCも携帯電話もまだ普及していないこの時期、何人でどのくらいのパワーで仕上げていたのだろうなぁ。想像できない。
想像できないと言えば、この頃、ファンのお楽しみはこれだけではなかった。
以前紹介されていた壁張り集計表→古いアルバムの中に~90~ : heco へこ☆ろぐ log
こちらは1990年くらいのものなので、リアルタイムで記憶にある。
今は便利なツールは増えたけど、もしかすると学連自体の人が減ってしまっているのかもなぁ…
でも、せっかくインターネットはあるわけで、どのくらい時間が経っても良いので最終集計が見たいなぁ…と遠吠えしてみたりするのではある。「じゃあお前がやれや」と言われたら、何か手伝えることありますか、と言ってみたい。
さらに。
ラリーポイントじゃない時代、法政3−2日体は3時間15分でしたか。
バレーボールがラリーポイントになったのは、こうした「予測のつかない長い試合」をある一定の尺に収めたい、とするテレビ側の要求(ちうか「そうなったら、テレビでももっと放映できるのにな〜」というような焚き付け?)であったと聞く。バレーボールは時間が読めない、という意味では現在も完全ではないが、こういう試合の長さを見るとけっこう「ラリーポイント移行」の効果はあったのかな…と感じるところはある。
関東1部男子の8チーム制移行(旧6チーム)は平成10(1998)年春季。バレーボールがラリーポイント制に移行したのは平成11(1999)年(大学も同じタイミングなのかどうかは失念)。女子はもう少し前から8チームだったわけで、サイドアウト制での8チーム展開は大変だったんじゃないのかなと想像してしまった。
ナイター開催でもないのに、「昼前から見ていて、終わったら夜の9時」という状況には何度か遭遇した記憶がある。
しかし。
各大学メディアの充実っぷりに関しては、現在のほうがいろいろとすげぇ。媒体が紙だけだったからかもしれないが、今ほど掘り下げられたバレー記事は読めなかった記憶があるなぁ。
そして。
ブコメいただいた通りです(強調by dhalmel)。
sputnik0829 Volleyball 筑波のお客さんっぷりがすごい。でもこの時のチームがなければ、阿部君も大木君も塚弟もつくばでは見られなかったんだろう。
でもね、筑波は5位が多かったのよ。入替戦直前で踏みとどまりまくっていたという。
当方が見た初年度が東日本初優勝でした。東日本という大会にそこそこ思い入れがあるのはそれ故かもしれぬ。